萬谷法英 沖縄旅行記
2004年1月5日(月)〜7日(水)

番外編もあるよ!!!
沖縄の戦跡と基地を回りました。



旧海軍司令部壕

 
沖縄豊見城市にある旧海軍司令部壕です。

 
左はこの場所で亡くなられた方々を祀った塔です。
右は戦艦ヤマト、米軍の攻撃に沈没しました。

 
内部は戦争中の記録を記したものがたくさん展示してあります。
左は大田海軍少将。
この方が海軍次官(日本政府)に宛てて、
沖縄県民の献身的作戦協力について訴えた文章は切実なものがあります。
「県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」


壕に残された遺品です。他にもたくさんありました。

 
壕内部への入り口の階段です。両側には千羽鶴が・・・
下までかなり深いのですが、これらはすべてクワなどで掘られたものだそうです。
105段、30メートルの階段です。

 
壕内部。
左は手榴弾自殺をされた時の破片のあとがくっきりと残っています。
壁に描かれた「醜 米 覆 滅」の文字。
あと壁をよく見ると「耐」の文字もありました。

 
当時は450メートルあった内部、4000人の兵が収容されていました。
兵隊は休む時もこの通路に雑魚寝するほど混みあっていたそうです。

 
左は出口、ここから前線に出て行き、帰ってくる兵は少なかったそうです。
右は司令官室。年始ということで鏡餅が祀られていました。
壁には「大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」・・・

南風原陸軍病院 (黄金森-くがいむい-)

 
南風原市内、市民センターの中に陸軍病院跡の遺品が展示されてました。
右の写真では、今でも市内に残る壁の銃弾のあとが・・・

 
南風原陸軍病院内の模型です。
『ひめゆり』ではこの南風原陸軍病院のシーンも出てきます。
感慨深いですね・・・
当時 黄金森(くがいむい)と呼ばれた美しい森も、地獄と化したのだと聞きました・・・


内部発掘の時の写真でしょうか・・・?
今では中が崩れ、内部までの公開はしていません。
当時の状況を残す、貴重な写真だと思います。
学徒たちはこの中で何を思って耐えていたのでしょうか?


黄金森(くがいむい)に入ってみることにしました。
入り口を発見するのも大変なくらいの道でした。

 
森の中も整理されていない獣道です。

 
南風原陸軍病院壕跡です。
何人もの人間が命を落とした場所です。
南部脱出の際には歩けない兵隊は取り残され、青酸カリ入りのミルクを飲まされました。

 
入り口ですが今は封鎖されています。

 
この黄金森(くがいむい)全体が陸軍病院として機能していました。
いたるところに亡くなられた方々を祀った碑がありました。


もうひとつの入り口です。
今では崩れ落ちこんな状況です。


当時、ひめゆり学徒隊が飯あげという任務にあたった、「飯あげの道」です。
この任務はとても危険で、亡くなられた方のいらしたそうです。
『ひめゆり』でも「飯あげ」のシーンは出てきます。

 
黄金森(くがいむい)頂上付近にある「仏の前」の碑です。
「天つ日も おだしき光をそそげかし 傷負い眠る 丘のみたまに」・・・

糸数壕 −糸数アブチラガマ−

 
糸数にある自然壕、アブチラガマです。
右が入り口です。ここでも多くの住民死者を出しました。
馬乗り攻撃(壕の上部からの攻撃)をくらってしまったのです。


入り口です。奥深くまで続きます。
内部は真っ暗で懐中電灯を持ちながらの見学です。
全長270mの壕内は600人以上の負傷兵で埋め尽くされていました。

 
内部は当時のままの状況が残されています。
右は壕での遺品の数々です。
中には遺品を持ち帰る観光者がいるみたいですが、絶対にやめてください。

 
病棟と破傷風患者の部屋です。
とても病院として機能していたとは思えぬものです。

 
左は脳症患者が隔離されていたと思われる場所です。
みなさん、この中に半年住めますか?
脳症じゃなくても気が狂ってしまいそうです。

 
右は爆風よけのために築かれた壁です。
入り口付近の爆撃も内部にかなりの衝撃をあたえたそうです。


当時死体がつまれていた死体安置所です。
壕内部にはひめゆり部隊立入禁止区域もあったそうです。

 
便所とありますがほとんどの人が歩けぬほど衰え、付近に桶を置き用をしたそうです。
小便を口に含み、生きながらえた方もいらしたそうです。
中にはその小便も出ない方もいらしたそうです。


壕内部にある井戸。
これのおかげで一命を取り留めた方もいらっしゃいます。
下の写真の日比野さんもその一人です。


その当時の生存者の日比野さんです。
愛知県からたまたま来られていた所を、偶然お会いできました。
その当時のお話に涙があふれました。
ずっとずっと長生きしてください。

  
壕出口付近にある慰霊碑です。
右の壕には一本の光がさし、その光を見て外の世界を夢見た学徒もいたそうです。
『ひめゆり』ではその状況を「小鳥のうた」であらわしています。

あの小鳥になれたら 空を飛んで逃げよう 
自由に羽ばたいて 甘い風を吸い おうちへ飛んでゆく
母さんただいま 今帰ったわ・・・

ひめゆりの塔  −ひめゆり平和記念資料館−


沖縄南部糸満市にあるひめゆりの塔です。
ここはもともと第三外科壕があったところです。
ひめゆり学徒隊はここにて無情な解散命令を受けました。
第三外科壕への攻撃は45人中40人の職員・生徒の犠牲を出しました。

塔に刻まれている職員16名・学徒194名の内128名は
解散命令後の戦死者です。


有名な「ひめゆりの塔」です。
ひめゆりとは沖縄県女子師範学校の校友会誌「白百合」と
沖縄県立第一高等女学校の校友会誌「乙姫」の
名前の一部をあわせたものです。


『いはまくら かたくもあらむ やはらかに
ねむれとぞいのる まなびのともは 』


第三外科壕で亡くなられた職員の方々です。


第三外科壕を上からのぞいたものです。
南風原陸軍病院より命からがら脱出してきた学徒たちは
ここに身をひそめ、何を祈っていたのでしょうか?


「ひめゆり平和祈念資料館」です。
門構えは当時の師範学校のつくりと同じですね。『ひめゆり』でも出てきます。
中は撮影は禁止でしたので写真はご了承ください。

東京にて『ひめゆり』のミュージカルをやるのだというと
生存者の方が、またやるの?といいながら
当時のことをいろいろ話してくださいました。
その節は本当にありがとうございました。
その時の涙を忘れずに生きていこうと思います。

喜屋武岬

 
沖縄最南端にある喜屋武岬です。

 
この綺麗な海も 、当時は
米軍に追い詰められ身投げした方々の血で真っ赤に染まったと聴きました。

沖縄陸軍病院之塔

 
ひめゆりの塔からすぐの場所にある「沖縄陸軍病院之塔」です。
右は当時そのままのガマが残っています。

第一外科壕

 
「第一外科壕跡」です。
綺麗に整理されているわけではなく、
右のガマにも普通に入れます。
中には当時亡くなられた方の人骨などが今でもあるそうです。

白梅学徒看護隊之壕 −ヌヌマチガマー


「玉泉洞王国村」近くにある「白梅学徒看護隊之壕」です。
白梅とはひめゆりと同じ女学生隊です。

 
慰霊碑すぐにある壕「ヌヌマチガマ」です。
当時の病院の機能はここに集中し、手術室もありました。
患部切断が必要な患者が多数いましたが、麻酔なしの手術だったそうです。

『ひめゆり』では、僕の演じる杉原上等兵が
麻酔なしで左足の切断手術をします。

 
右は封鎖されている入り口です。
当時看護隊は洞窟の暗闇の中をロウソク一本で走り回り、
不眠不休で働かされたそうです。
ここでも南部への脱出の際、
自力歩行不能の患者約500名が措置されたそうです。


白梅学徒他、亡くなられたみなさん、
今はこんなに綺麗な公園になりましたよ。

白梅の塔  自決の壕


県立第二高等女学校の職員、生徒132名の慰霊塔
「白梅の塔」です。
脱出にてここまで生き延びてきた生徒達もここで全滅したそうです。

観光客でいぎわう「ひめゆりの塔」とは対照的に
静かでとても綺麗なところでした。
沖縄にお越しの際はぜひ「白梅の塔」にも足を運び、
手を合わせてあげてください。


すぐ隣にある「自決之壕」
戦後、折り重なった白梅学徒隊の遺骨が発見されました。


ここのガマの内部にも入れます。

いろんなガマを見てきましたが
どれも残酷で切ないものでした。

平和祈念公園  −平和の礎−


旅の最後に「平和祈念公園」に行きました。
写真は「平和の礎」です。


ここでは15年戦争で亡くなられた沖縄出身者と
沖縄戦でなくなられた約24万人の氏名を刻んでいます。

こんなにも多くの人間の命を奪う・・・
戦争って何なんですかね・・・

 
公園内はとても広く美しく、平和を象徴しています。
海も一望でき、心が洗われます。


この旅ではホントに多くのものを学びました。
未だに戦争が無くならない現代
僕達は戦争で無くなられた方々から
何も学ばずに
またおろかな行為を繰り返すのでしょうか・・・

このギャラリーを見て
平和の尊さ、戦争のむなしさを
少しでも感じてくださればうれしいです。

もう二度と もう二度と
このような争いが起こらぬよう願い
亡くなられた方々の冥福を祈ります・・・


平和の波 永遠なれ
(「平和の礎」より)


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